2014/08/11

雪に降られて縄文杉・その2

屋久杉は育つ環境が良いところでは本物の屋久杉になれない。人間も環境に恵まれすぎると大きな人間になれない?

若いときの苦労は買ってでもせよとは良く言ったもんである。まさしく屋久杉そのものである。屋久杉は大木の中で生まれる。小さいときは大木の影になって太陽の光がほとんど当たらないので育つのが遅い。500年くらいまでは実にゆっくり成長する。そして500年を過ぎたころ、周りの木に並ぶくらい成長したときから太陽の光を浴びて大きく育つ。そして若いときにしっかりと基礎ができたことで2000年以上も生きることができる。普通の杉は寿命500年と言われている。若いときに一気に成長するが、寿命が短く大木にはなれない。


この日は運が悪いことに雪が降ってしまった。
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雪に備えてなかったので、滑るし、寒いし、手袋も防水ではないので雪が溶けて浸み込んで超冷たい。


標高約1000メートル付近

翁杉(オキナスギ)。2010年9月10日ころに倒れてしまった。推定樹齢は2000年、幹回りは12.6メートルで枯れ死してない屋久杉の中で縄文杉に次ぐ太さだった。
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翁杉から少し登ったところにウイルソン株がある。しかし雪が強く降り出してカメラを取り出せない。

滑りながらも懸命に登る。

登るに連れ、雪がどんどん深くなってきた。
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標高1300メートル

ようやく縄文杉に到着。
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誰かが作った雪ダルマ。
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幹回りはなんと16.3メートル。推定樹齢は2000年から7200年までと広すぎ(笑)
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それでも、その大きさには圧倒される。もっと近づきたいが柵を越えるのはダメ。


トップで登り始めて6番目で縄文杉に到着。俺としてはよく頑張った。

でも下りが大変だった。滑るので必要以上の力が足の付け根や膝にかかった。まして背負っている荷物が15キロくらいある。

途中から膝を曲げることができなくなった。


大王杉。推定樹齢3000年。
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縄文杉が発見されるまでは屋久島で一番の巨木だった。


さらに雪が深くなり、後から来た人にどんどん追い越される。
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ウイルソン株。
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伝説では1586年に豊臣秀吉の命令により京都の方向寺建立の為に切ったとされている。米国のウイルソン博士によって世界に知らされたのでこの名がついた。


ウイルソン株の中に入って上を見上げるとハート型だった。
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株の中は畳10畳くらいの広さ。


さらに数キロ下る。登山者のほとんどに追い越された。足が痛くて、まさに地獄。


小杉谷小学校の跡。
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小杉谷は屋久杉伐採の基地だった。昭和35年ころは540人の人が住んでいた。児童生徒はピーク時(昭和37年)147人まで膨らんだ。昭和45年7月、下屋久営林署の事業所廃止に伴い廃校となった。


小杉谷の歴史。
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登るときは真っ暗だった橋。欄干がないのでけっこう怖い。足が痛くて、ヨロヨロ歩きなんでなおさらだった。
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終バスの時間がどんどん迫ってくる。携帯がガンガン鳴る。登山口のスタッフが心配して電話をかけているのだ。でも手がかじかんで携帯を取り出せない。それよりも早く下りることが大事だし・・・

辺りは真っ暗になった。再びヘッドライトを点ける。

やっとゴールが見えてきた。まだバスは待機していた。

往復22キロの山歩きがようやく終了。結局全員に追い越されて最後の登山者となった。

俺以外に誰もいない終バス。
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ホテルに戻ってびしょ濡れになった靴をドライヤーで乾かす。
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辛かったけど、最後まで一人でやり遂げたので目的は充分に達成できた。

次にどこかの山に挑むときはカメラは1台にしよう。さらにミラーレスなんかが良いかも。雪対策としてアイゼンも絶対に必要だな。そして完全防水の登山靴、手袋などなど。


翌日は実に良い天気だった。
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昨日は辛かったけど、縄文杉の生い立ちを少しだけ味わえたような気がした。


レンタカーで観光名所を回った。

千尋の滝。花崗岩の一枚岩から流れ落ちる優雅な滝。
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水量が少なくて迫力不足。


コスモス畑。満開でした。
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トローキの滝。日本では2ヵ所しかない、直接海に落ちる滝。
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終わり
2014/08/11

雪に降られて縄文杉・その1

現在アラスカのコディアック島にいます。悪天候(霧と雨)で連日飛行機が欠航。帰国はいつになるのか未定です。早くても14日以降になります。14日から大洗沖にカジキ釣りに行く予定でしたが、14日はダメになりました。16日夕方の飛行機で青森に行って、SFPCのマグロキャスティングセミナーに講師として参加する予定でしたが難しいです。20日からカナダですが、それまでには帰国できると思ってます・・・
コディアックは雨の多い島です。年間降水量は1900ミリとアラスカ州の中ではダントツです。ちなみに東京は1500ミリです。でもコディアックは7月と8月は一年の中で一番雨が少ない季節です。なのに毎日雨です。困ったもんです。まだ雨だけなら飛行機は飛ぶのですが、霧が曲者です。風が霧を吹き飛ばしてくれるのですが、ここ数日風も弱いです。温度が上がれば霧も上がるのですが、1日の温度差が1℃なんて日もあります。


さて本題に入ります。遅れに遅れているブログですが、今回は昨年11月に行った屋久島(世界遺産)です。屋久島は平地で年間降水量が4000ミリ、山地で8000ミリから10000ミリという日本一の豪雨地帯です。


11月下旬、屋久島到着
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ここで山用品を購入
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屋久杉で作った座卓
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何と210万円(*_*)
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翌日は雨の中をレンタカーで屋久杉見学

紀元杉です。
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紀元杉は推定樹齢3000年。

3000年前、日本はまだ縄文時代。邪馬台国の女王卑弥呼が現れる1200年以上も昔である。

屋久杉自然館に展示されている切り株は年輪を調べたところ樹齢1660年であることがわかった。ちなみに直径は2メートルくらいしかない。紀元杉はさらに太く3メートルくらい。縄文杉(明日登る予定)なんか直径が5メートル以上(胸高周囲16.4メートル)ある。

縄文杉の推定樹齢は一説には7200年。もし事実ならエジプトのギザの3大ピラミッドより2000年以上も古い。

俺はそのころの祖先からざっと数えると300代目(*_*)


紀元杉を反対側から見上げてます。凄い貫禄に圧倒されました。
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雨が多いのでコケやシダが多い。
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こんな大木があちこちに生えている。
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屋久杉自然観でちょっとお勉強。
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屋久島は猿と鹿が多いんだな。
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これが樹齢1660年の切り株。直径は2メートルくらい。
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左から屋久杉(樹齢225年)、屋久島の地杉(樹齢64年)、高地の魚梁瀬杉(樹齢155年)、秋田の天然秋田杉(樹齢195年)
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いかに屋久杉の密度が高いかがわかる。高地であること、そして雨が多い、高い木が生い茂っている、栄養分が少ないことが屋久杉の育つ条件。環境が良いと屋久杉は普通の杉になってしまうのです。

屋久杉ってなあに?
http://yakusugi-museum.com/data-yakushima-yakusugi/203-about-yakusugi.html


この日は別の山用品屋で足らないものを購入。
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この日は東さん情報の居酒屋「つぼね」に行った。
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珍味?「亀の手」
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食べる部分はほとんどないけど、お酒のつまみにお勧めです。


元気なおかみさんでした。地元で採れたミカンをいっぱいいただきました。
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そして

いよいよ

縄文杉に会いに行きます。

完全防水カメラバッグ。中身は大型デジイチ2台、レンズ3本、防水デジカメ1台などなど。
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こんなに重くて大丈夫???


ホテルを早朝出発。途中から登山口までバスです。

バスは始発に乗った。
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まだ暗いトロッコ道を歩く。

途中に囲いのない橋があったり、右側が崖だったり、かなり危険(-_-;)
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さて山登りが大の苦手の俺に目標は達成できるのか???


続く
2014/06/23

城巡り・沖縄編

俺は沖縄が大好きだ。釣りにはまったのも沖縄。そして人生で一番釣りに狂っていたのも沖縄に住んでいた3年間だ。

1983年から3年間沖縄に住んだが、釣り釣り釣りの毎日だった。車の中はいつも魚臭かった。住み始めたころは家より車の中に寝る方が多かった。しばらくすると荒磯にはまり、磯にテント(厳密にはブルーシート)を張って寝るようになった。一番長いときは磯で1か月生活した。当時のあだ名は「磯コジキ」。


今回はフラッと城巡りで出かけた。世界遺産に登録された城が沖縄本島に4つある。俺が沖縄で釣り狂っているときは世界遺産にも登録されてなかったし、俺自身が観光に目を向ける余裕なんてなかった。

沖縄観光チャンネルより抜粋

沖縄にある多くのグスク(城)及び遺跡の中から、5つのグスク(首里城、中城城跡、座喜味城跡、勝連城跡、今帰仁城跡)と、その関連遺産の4つの遺物(園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽)が第24回世界遺産委員会会議で2000年(平成12年)に世界遺産登録されました。これらの公式名称は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」といいます。


この4つの城が1400年代に次々と戦いの場となります。現在に伝えられる歴史は最後の勝者である琉球王朝の尚氏に作られたもので、多くは謎である。
※世界のほとんどの歴史は勝者が残したもの(書き換えたもの)である。事実と違うことは少しも珍しくない。基本的に参考程度にしておくべき。真実は当時の人しか知らない。

中城城址。
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護佐丸の城として有名
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護佐丸・阿麻和利の乱
http://gusuku.que.jp/episode/episode_05.html

護佐丸は阿麻和利に策略で王府に謀反の疑いをかけられる。

阿麻和利に率いられた王府軍に囲まれると

護佐丸は戦わずに自刃した。
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最後まで首里王府に反旗を翻さなかった護佐丸は、今も忠臣として語り継がれています。


勝連城跡。阿麻和利の城として有名。
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阿麻和利とは
http://www.city.uruma.lg.jp/4/3222.html
これを読むと村民には尊敬されていたようだ。


城壁が美しい。
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座喜味城跡。これも護佐丸が建てた。
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護佐丸は今帰仁城の北山王朝を滅ぼし、座喜味城を築城、そのあと中城城を築城、そして琉球王朝に滅ぼされた。
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石垣はほぼ同時代に作られたので、どれも円形で曲線が美しい。
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3つの城を見た後は残波岬へ

ここでも30年以上前に俺は何度か釣りをした。
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昔はここに小屋を建てて釣りをしている人がいた。

さすがに小屋は消えていたが、その名残は残っていた。
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歴史を感じる釣り人。挨拶しても返事はない。
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荒磯師はポイントを荒らされたくない、また知られたくないので、無口な人が多い。ただし親しい仲間ならいくらでも話してくれる。俺も泡盛でも持参すればよかった?

でもナイチャーだから警戒されるかな?
※沖縄の人は本土の人を「ヤマトンチュウ」もしくは「ナイチャー」と呼ぶ。沖縄に住んだ本土の人のことは「シマナイチャー」。そして沖縄の人を「ウチナンチュウ」と呼ぶ。


懐かしい3点張り仕掛け。いまだに現役なんだな。
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残波岬灯台。
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岬の先端の離れ岩にも釣り人がいた。
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ちょっと田中一村風に。
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田中一村
http://www.amamipark.com/isson/isson.html


そして夕食はプロショップ・ボギーのオーナー儀保君と

このお店でいただきました。
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沖縄の魚がいっぱい。ここのオーナーは釣りが大好きだそうです。
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儀保とは沖縄磯コジキ時代からの仲間です。お互い年取ったな。
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昔の話で盛り上がりました。ちなみにヨセミヤのつぐみ、ミノル兄弟、マンブーの前田船長も30年以上のお付き合いです。

店の看板が面白い。

次は履いて来るぞ(笑)
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次は被ってくるぞ(笑)
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沖縄の言葉は何か温かみをとか人情を感じる。ウチナンチュは基本的に困っている人、貧しい人に同情的。事実、俺は沖縄時代にたくさんの人にお世話になった。

でも沖縄方言を使う人は減ってきた。35~6年前にヤンバル(本島北部)に行ったときは全然言葉が理解できなくて外国に来たかと思った。


そして翌日は今帰仁城へ
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13世紀から14世紀始めにかけて北山王朝が大勢力を誇った。
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鉄壁の城だったが
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最後は味方の裏切りから一気に攻められて滅んだ。
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最近、こんな本を読んだ。

「沖縄が中国になる日」
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沖縄は親日派と親中派(中国)に分かれている。そして歴代知事や歴代那覇市長などは親中派の人が多い。中国福建省の名誉市民になった那覇市長や宜野湾市長もいるのだ。また仲井眞知事と稲峰知事は中国帰化人の子孫である。

沖縄本土復帰前までは日本を批判する人はほとんどいなかった。ところが復帰前から日本を非難する声が出始め、今では「琉球王国は日本によって滅ぼされ、住民は沖縄戦に巻き込まれ、多くの住民が日本軍によって虐待された」という被抑圧史観が若年層に定着してきている。

日本に批判的なのは沖縄の2大紙「琉球新報」「沖縄タイムス」、そして「沖教組」である。親中派に都合の良い記事を大々的にあつかい、親日派、親米派に都合の良い記事はほとんど載せない。沖教組もそれにそった教育に徹底している。

メディアがよく使う「米軍基地の75パーセントが沖縄に集中する」というのも間違いである。これには三沢、佐世保、横田基地など自衛隊と共有する基地は含まれていない。三沢基地など97パーセントが米軍使用で自衛隊は3パーセントしか使用していない。自衛隊が共有しない米軍専用基地だけを対象としているのだ。これらの含まれていない基地を入れると沖縄にある米軍基地は22.9パーセントということになる。

戦後70年経っても日本政府は戦後政治の負の連鎖を断ち切ることができない。中国に対しても朝鮮半島に関しても沖縄に関しても金縛り状態である。

ちなみに2013年度の沖縄復興予算は3000億円の振興開発費、那覇空港平行滑走路建設費160億円と県の要求に対し満額回答である。全国レベルでは3921億円の減額であるにもかかわらず。

ここにも「基地反対を叫べば金が取れる」、さらには「軍用地料」。そして沖縄戦で土地台帳が焼失したために戦後「自称地主」が次々と現れたなど、たかりが当たり前のようになっている。この人たちの主張を総合すると普天間基地ははるか水平線の彼方まで突きだすそうだ。

こんなことが2年前にあった。主催者は「普天間基地から爆音をなくす訴訟団」である。基地周辺の住民へ「1万円の投資で299万円のキャッシュバック」というチラシを配布した。要するに一家に付き1万円の訴訟費用を供出すれば、国から騒音補償費として300万円が支払われるということである。この団体の副団長は日朝友好運動を押し進め「アメリカを追い出そう」という運動にもかかわっている。


俺は4年前に中国に行ったとき、日本語を話せる中国人と尖閣問題で激しく話し合った。彼は尖閣だけでなく「沖縄も中国のものだ」と言い放った。

俺は多くの沖縄の人は「沖縄は日本」と思っているだろうと考えていた。ところがこの本を読んで強い危機感を感じた。その沖縄に中国がどんどん接近している。「沖縄独立」「中国と友好関係を」という人がたくさんいるのだ。そしてあちこちで集会などを開いている。福建省には沖縄友好会館も建っている。この建設費にも補助金が使われている。さらに工事発注時は2億円だった建設費が、中国側の一方的な値上げで結果的に9億円も払わされたのだ。

この本の著者は最後をこう締めくくっている。

ところが我が国は、戦後政策で2つの重大な過失を放置してきた。それは、

①国家が大東亜戦争を総括することなく、沖縄や中国、朝鮮に謝罪を繰り返すため、それらの集団は何度も謝罪と補償を我が国に求めている。加えて、我が国の戦後世代までもが、自虐史観にとらわれており、外交上、劣勢な立ち位置にある。
②戦後、元帝国陸海軍の高級将校たちが、極東国際軍事裁判に反論することなく、あらゆる開戦責任を背負ってこの世を去っていった。
対照的にドイツは戦後、元軍人が戦争責任の是々非々を主体的なビジョンで総括した。その結果、軍人の地位は回復し、再軍備を果たした。今やドイツ軍はNATO軍の中核を占めるに至っている。