2009/12/18

キューバ伝説



中学から高校へ通っていたころ、俺はチェ・ゲバラの大ファンだった。ゲバラがボリビアの山中で捕えられ銃殺されたとき俺は13歳だった。その頃は革命に強い関心があった。

あれから40年以上が経ち、キューバに釣りに行くことになった。忘れかけていたゲバラだったが、出発が近づくにつれ釣りよりもゲバラ、そしてヘミングウエイに関心が移っていった。そして飛行機の乗り継ぎが悪くハバナに3泊(行き2泊、帰り1泊)すると聞いて大喜びしていた。本来ならガックリするところなのだが。偶然にもキューバ出発1週間前に外房の山正丸でJ・アントニオさんと同船した。お父さんはあのアントニオ古賀さんである。ラテン歌手であるアントニオさんはキューバも行っていてやたらと詳しい。そこでオールドハバナに行ったらボディキータというレストランで黒豆の焼き飯。コヒマルに行ったらヘミングウエイが通ったレストラン「テラサ」でパパダイキリを飲んでくださいなどなどいろいろと教えていただいた。

ハバナに着くなり初日のディナーはボディキータでディナー。そして翌日は世界遺産でもあるオールドハバナの要塞群(ブンタ、カバーニャ、モロ)を見て回ったあとコヒマルへ向かった。
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コヒマルは小さな入り江がありヘミングウエイが船を係留しておいた場所でもある。そして老人と海の舞台となった港でもある。テラサの前には大型観光バスが止まっていた。みんなレストランの前で写真を撮っていた。中に入ると大きな絵が飾られていた。40年くらい昔の風景を描いた絵だが、今とそんなに変わらない風景だった。さらに奥に入るとヘミングウエイが座ったテーブルがあった。海に面した場所でロープで仕切られていた。壁にはたくさんの写真が飾られている。その中にはカストロと一緒に写っているのもあった。
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しばらくコヒマルの海岸を歩いた後、ハバナ郊外にあるヘミングウエイの住んでいた家にいった。今では博物館となっているが、ヘミングウエイは人生の約3分の1にあたる22年間をキューバで過ごした。大きな家で庭も広くプールもあった。書斎や応接室、食堂など昔のままに保存されていた。プールの隣には愛艇PILAR号も展示されていた。
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自殺未遂を繰り返したヘミングウェイは、1961年にアイダホ州の自宅で猟銃自殺を遂げる。その知らせを受けたコヒマルの漁師たちが、ヘミングウェイを悼み、自分たちの舟の碇を溶かしてこの胸像を作った。
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そしてオールドハバナにある革命博物館に行った。そこに展示されているグランマ号は全長18メートル。どう見ても定員20名がいいところの船である。カストロとゲバラはこの船に乗ってメキシコからキューバへ来たのだ。なんと82名も乗りこんで。ところが上陸の情報はすでに政府軍に流れており、最初の戦闘でほとんどが戦死、生き残ったのはたったの17名(12名と言う説もある)だった。そのときカストロはこう言ったそうである。「俺たちは17人も生き残った。これでバティスタの野郎の命運は尽きたも同然だ!」戦車や戦闘機で武装した2万人の政府軍に対して、軽武装の17名の革命軍でどうやって戦うのか。さすがのゲバラも、カストロが悲嘆のあまり発狂したのではないかと真剣に心配したという。
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銃痕が生々しい。
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カバーニャ要塞の中にあるゲバラの執務室。
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愛用のカメラはニコンだった。
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ゲバラに関しては言うまでもなく、壮絶な生き方をした男である。革命成功の後、しばらくキューバの要職にあった。給料は自ら半額に減らし、サトウキビの収穫や、工場の仕事など、人々と一緒になって働いていた。そして革命から6年後の1965年4月忽然とキューバから消える。新たなる帝国主義からの解放を目指して渡った場所はコンゴだった。その後コンゴでの活動に限界を感じ一度はキューバに戻ったが1966年11月にボリビアに入国。しかし苦しいゲリラ活動が続き1967年10月8日足を撃たれたあと捕えられ、翌9日に銃殺された。39歳だった。

捕えられたときのゲバラ。かなり疲れきっていたようだ。
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革命革命にあけくれた人生。なんでそこまでという残念な思いもある。
「もし我々が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者と言われるならば、出来もしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、“その通りだ!”と」(チェ・ゲバラ)

ゲバラの遺体を埋めた場所は長い間公表されなかった。当時の政権が米国寄りでゲバラの墓が反政府運動の聖地となることを恐れたからだ。それが30年後の1997年に遺体を埋めるときに立ち会った当時の将校が「このまま黙っていたら永久にわからなくなる」と自分の人生が終わる前に公表したのだ。そして時代は反米を唱える国家になっていた。今ではボリビアの観光名所となっている。遺骨はすぐにキューバに送られてサンタクララに埋められ国葬となった。

英雄ゲバラの追悼演説をするカストロ
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カストロ「戻ってきてくれたことに感謝します」

サンタクララ墓地に建てられたゲバラの銅像
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ゲバラのボリビアの墓地はここを見てください。イゲラ村で政府軍に捕らえられ翌日銃殺された。遺体は晒されたあと埋められた。
世界一周旅行記 ゆめぽろEarth
http://yumepolo.blog87.fc2.com/blog-entry-218.html

カストロに関しては独裁主義者と言われているが、長年の米国の経済封鎖にも関わらず国内に悲壮感がない。また国内を見渡しカストロの肖像や写真がほとんど飾られてないのに気がつく。ゲバラの写真はどこでも見かけるのだが。これはカストロ自身が個人崇拝を否定しているからである。毛沢東、金日成とは大きな違いである。国民に聞いても「あいつはよくやっているよ」というような答えだった。貧しいのは誰が見ても明白である。それなのに悲壮感はほとんど感じられなかった。治安も他の中南米諸国に比べて安全である。
CIAは独裁者カストロの個人資産を調査したが、あまりに少なくて驚いたという。独裁者といえば巨額の資産、海外送金、そして亡命というケースがお決まりなのだが。

●主な国家元首の年収(日刊ゲンダイ07/11/2)
シンガポール・リー首相…2億4600万円
アメリカ・ブッシュ大統領…4500万円
日本・福田首相…4000万円
英国・ブラウン首相…4000万円
ドイツ・メルケル首相…3800万円
韓国・盧武鉉(前)大統領…2400万円
フランス・サルコジ大統領…1680万円
ロシア・プーチン大統領…850万円
タイ・スラユット首相…480万円
中国・胡錦濤国家主席…53万円
キューバ・カストロ国家評議会議長…4万円(!)

カストロってすごいと思うのだがゲバラに比べて人気がかなり低い。長年指導者の立場にあるとどうしても人気は下がっていく。

英雄って長生きしてはいけないのだろう。ゲバラと並んでキューバの英雄と言われるホセ・マルティも42歳で戦死している。日本なら坂本竜馬、源義経だろうか。

カストロも革命直後に死んでいればとんでもない英雄だっただろう。


コヒマルの海岸で老夫婦に5ペソ払ってゲバラを偲ぶ歌をお願いした。悲しい歌である。
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Hasta siempre comandante Che Guevara
2009/06/15

日本の城巡り1

お城に興味を持ち出したのは小学生の頃だ。姫路城のプロモデルを作ったり、自分でお城の設計図なんかを書いて遊んでた。

ここ30年は釣りばかりで、お城に行くことなど一度もなかった。しばし忘れていたお城のこと。

数年前から海外へ釣りに行ったとき史跡や博物館に寄ることが多くなった。

エジプトのピラミッド&カイロ博物館、ニュージーランドのオークランド博物館、そして昨年は始めて釣竿を持たないで海外へ行った。行ったところは昔から行きたかったローマとバチカン。釣竿を持たないで行くのが凄く新鮮に感じた旅だった。



城を久しぶりにしみじみ見たのは2年前の2月、姫路の友人の居酒屋へ行ったときだ。宿泊したホテルの窓から姫路城が見えた。現在の城は池田輝政によって1601年に大改築が始まり9年後に天守などが完成した。
姫路城1

夜もまた素晴らしい。姫路城は国宝、日本3名城のほかに世界遺産でもある。
姫路城2

翌年の5月は友人と姫路城のお祭りを見学。
姫路城3



今年に入ってからは釣りの遠征先で城を訪ねることが増えた。悪天候で船が出ないときは決まってお城見学である。同行の者も無理やり連れていかれてます。


まず2月に唐津の名護屋城。全国統一を成し遂げた豊臣秀吉によって1592年3月に完成。工事が始まってわずか8ヶ月で大阪城に次ぐ規模の巨城が完成した。その後朝鮮出兵のために全国から30万近い軍勢が集められた(そのうち17万が朝鮮半島に渡った)。10年後の1602年に唐津城築城のときに解体された。

大手門から見たところ。
名護屋城1

ここに天守があった。
名護屋城2

傘下には全国から大名、武士が集められた。突然の大都市が出来たのだが、水不足で争いが絶えなかったらしい。
名護屋城3

当時を復元した模型
名護屋城4

こんな城だったがわずか10年で解体された。
名護屋城5



次に対馬にある日本最古の城の一つ金田城。今では建物は残っていない。石垣だけが山の急斜面に点在して残っている。667年天智天皇が新羅、唐の連合軍の攻撃に備えて建てた。その4年前に日本は百済を応援するために大軍を朝鮮半島に派遣して白村江の戦いで大敗して半島から撤退した。

急な山道を1時間以上歩く。
金田城1

ここが一の城戸。
金田城2

1300年以上も昔に積み上げられた石垣。この急斜面にこんなに大きな石垣を築いたことに驚くばかり。歩くだけでも苦しくて死にそうだった。
金田城3



続いて唐津藩・唐津城。1608年に寺沢広高によって建てられた。建築材料には名護屋城を解体して使った。
唐津城1

1871年に廃藩置県により廃城となり、払い下げにより建造物が解体された。

現在の天守閣は1966年に建てられたものである。
唐津城2



続いて肥後・熊本城。1607年に加藤清正によって建てられた。広大な敷地面積と石垣は見ごたえ充分だ。西郷隆盛が西南戦争のときに攻めきれなかった城である。あとで西郷は「熊本城に負けた」と言ってたそうだ。
熊本城1

熊本城の石垣は高い。その積み方は極秘で積むときは幕で隠したそうだ。

また御殿には昭君の間がある。これは豊臣秀吉の子飼いの家臣であった清正が徳川家との戦が避けられなくなった際には、秀頼を熊本へ迎え、天下一のこの城で徹底的に徳川軍と戦うつもりであった...数々の武勇で名をはせた猛将・加藤清正にふさわしい伝説だと思います。

この部屋は、「昭君」ではなく実は「将軍の間」であったという説があります。
「将軍」とはもちろん、清正が忠誠を誓っていた豊臣家の若君、秀頼のことです。

1809年に原因不明の出火で全焼。現在の天守閣は1960年に建てられた。
熊本城2

加藤氏のあとを引き継いだ細川氏のときに宮本武蔵が招かれた。日本3名城の一つ。
熊本城3



そして信州は松本藩・松本城。石川数正、康長親子によって1593年から1594年頃に完成した。熊本城はこの松本城がモデルになったそうだ。
松本城1

明治時代になって旧物破壊思想のもと、松本城天守も売却・破壊の運命にさらされたが、有志の努力により、幾多の困難を乗り越えて現代まで保存されている。
松本城2

現存12天守の一つ。国宝。
松本城3



現存12天守
弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城

日本3大名城
名古屋城、姫路城、熊本城


さて次はどの城へ行こうかな?
2008/12/28

帝国の繁栄と滅亡

ピラミッド
人類の歴史を振り返ると繁栄と滅亡の繰り返しである。かつて世界最強の王国もしくは帝国として栄えた国家も永遠に繁栄することはできず、歴史の中に消えていった。

スフィンクス

3年前に初めてピラミッドを見て5000年も昔にこんな凄い建造物を造った偉大なエジプト王国に敬意を感じた。しかしこれほどの強国もやがて滅びていく。


今年の12月にローマを訪れた。エジプトが滅び、オリエントが栄え、アレキサンダー大王の死後、急速に強大になり、永く世界最強として君臨した。「ローマは一日にして成らず」「コロッセオが滅びるときはローマが滅びるとき。ローマが滅びるときは世界が滅びるとき」とまで言われた強国である。
しかしそんな強国もやがて衰退して消えていく。

コロッセオ

コロッセオも見た。パンテオンも見た。シーザーやアウグストゥスら古代の皇帝が歩いたフォロロマーノも歩いた。エジプトもローマも石で造られた建造物が主なので2000年以上経てもその形を残している。

パンテオン

若いときチャールトン・ヘストン主演の「ベンハー」を見て大ファンになった。そして数年前にラッセル・クロウ主演の「グラディエーター」を見て感動した。どっちも古代ローマを舞台にした映画である。一度は濡れ衣を着せられ奴隷、もしくは罪人にまでされ絶望の淵にたった男が多くの困難を乗り越えて這い上がっていく。そして復讐を遂げる。
コロッセオを見たとき、ベンハーやマキシマスがダブって見えた。

繁栄と滅亡。
いま、アメリカという強国が建国以来最大の危機に立たされているといって過言ではないだろう。

どんな強国もいつかは滅びる運命にある。

ただしエジプトもローマも危機を何度も乗り越えて永く繁栄した国でもある。

絶望の淵まで行って這い上がってきたベンハーとマキシマス。

大恐慌とも言われている今の世界。ピラミッドやローマを見ながら学ぶものがあるのではないだろうか。