2010/10/28

オーストリア・ウィーン近郊一人旅

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オーストリアも最高の天気だった。

オーストリアのウィーンといえば森と音楽の都として古くから有名だ。


マーサー・ヒューマン・リソース・コンサルティング社発表の世界住みやすい街ランキングではウィーンがトップである。

2009(2008)年度   都市名   国名   (評価指数)
1位(2)  ウィーン     オーストリア  (108.6) 
2位(1)  チューリッヒ   スイス   (108) 
3位(2)  ジュネーブ    スイス  (107.9) 
4位(4)  バンクーバー   カナダ    (107.4) 
4位(5)  オークランド   ニュージーランド(107.4) 
6位(6)  デュッセルドルフ ドイツ    (107.2) 
7位(7)  ミュンヘン    ドイツ   (107) 
8位(7)  フランクフルト  ドイツ    (106.8) 
9位(9)  ベルン      スイス   (106.5) 
10位(10) シドニー     オーストラリア (106.3) 
11位(11) コペンハーゲン  デンマーク   (106.2) 
12位(12) ウェリントン   ニュージーランド (105.9) 
13位(13) アムステルダム  オランダ   (105.7) 
14位(14) ブリュッセル   ベルギー  (105.4) 
15位(15) トロント     カナダ  (105.3) 
16位(19) オタワ      カナダ  (105) 
16位(16) ベルリン     ドイツ   (105) 
18位(17) メルボルン    オーストラリア (104.8) 
19位(17) ルクセンブルク  ルクセンブルク (104.6) 
20位(20) ストックホルム  スウェーデン (104.5) 

このほか、29位ホノルル、35位東京、38位ロンドン、49位大阪、49位ニューヨークがランクインしています。


イギリスの情報誌Monocle (モノクル)発表の世界の住みやすい都市ランキング

1位 ミュンヘン
2位 コペンハーゲン
3位 チューリッヒ
4位 東京
5位 ヘルシンキ
6位 ストックホルム
7位 パリ
8位 ウィーン
9位 メルボルン
10位マドリッド
11位ベルリン
12位シドニー
13位ホノルル
14位福岡
15位ジュネーブ
16位バンクーバー
17位バルセロナ
18位オスロ
19位モントリオール
20位オークランド


23位京都

この他にもイギリスの調査機関 Economist Intelligence Unit(EIU)の発表もある。ランキングを出す採点の指標が違うので一致しないが、ウィーンはどこでも10位以内に入っている。これをアジアの機関が発表すれば大幅に違う結果になるだろう。俺は横浜が一番だと思っている(^^)


ウィーン空港からはCATでウィーン・ミッテ駅まで直通16分
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最初に入ったラーメン屋はつぶれてました。
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次のジャパニーズレストランも・・・

3軒目に行ったお店でようやく昼食(でも不味い)
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国立オペラ座。小澤 征爾が音楽監督を務める。
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旧王宮
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新王宮
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英雄広場
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美術史博物館と女帝マリア・テレジアの像
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※マリア・テレジアはフランス革命で処刑されたマリー・アントワネットの母で16人(男5人、女11人)の子を産んだ。亭主のフランツ1世は他にも子を50人作ったとか(^^;
政務は妻に任せて遊んでばかりいたらしい。

バベルの塔
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ブルク公園にあるモーツァルト像
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シュテファン寺院の南塔は高さ137メートルで寺院の建物として世界で3番目の高さを誇る
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夕食はここで和食を
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2日目はウィーンから西へ80キロほど行ったメルクへ

メルク修道院
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メルク修道院の天井の壁画
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修道院から見たメルクの街
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メルクからドナウ川を下った。世界遺産のヴァッハウ渓谷である。
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シェーンビュール城
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アックシュタイン城
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アックシュタイン城は盗賊騎士の城として使われ、囚人には、バラの庭と言われた岩だなから飛び降りるか、そこにとどまり餓死するか、という2つの方法しかなかったそうだ。

ケーンリンガー城(デュルンシュタイン城とも呼ぶ)
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左の山頂に見えるのがケーンリンガー城跡。1192年にイギリスのリチャード獅子王が十字軍遠征の帰りにバーベンベルク家のレオポルト5世に捕まり幽閉されていた城。1194年に莫大な身代金を払って釈放された。その後、リチャード国王を捕らえたことでローマ教皇ケレスティヌス3世の怒りを買うことになり、レオポルト5世は破門されてしまった。そして1194年、落馬事故が原因であっけなく死去した。

デルンシュタインの街並みから見たケーンリンガー城
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どの家も窓やベランダに花が
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3日目はハプスブルク家の夏の離宮シェーンブルン宮殿へ

王宮を上回る豪華さ。マリア・テレジア時代のハプスブルク家の栄華を見る。
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宮殿側からグロリエッテを見る。
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グロリエッテからシェーンブルン宮殿を。かつてはここにも宮殿を建てる予定だったが、さすがのハプスブルク家も資金難となり中止にしたらしい。
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ホテルに戻る途中、市立公園に寄ってヨハン・シュトラウス像を見て終了
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今では小国となってしまったオーストリアだけど、かつては大国だったということを実感した。しかしウィーンが住みやすい都市とは思わなかったよ。
2010/10/28

絶景スイス観光

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天気もよく、最高でした。


国境なき記者団から10月19日に2010年版の報道自由度世界ランキングが発表された。

1位  フィンランド アイスランド オランダ ノルウェー スウェーデン スイス
7位  オーストリア
8位  ニュージーランド
9位  エストニア アイルランド
11位 日本 デンマーク リトアニア
14位 ベルギー ルクセンブルグ マルタ
17位 ドイツ
18位 オーストラリア
19位 イギリス
20位 アメリカ
21位 カナダ
以下
34位 香港、42位 韓国、44位 フランス、48位 台湾、49位 イタリア、136位 シンガポール
140位 ロシア、171位 中国、175位 イラン、177位 北朝鮮、178位 エリトリア(最下位)

日本は2009年が17位、2008年が29位、2007年が37位、2006年が51位だから毎年ランクを上げている。上位には俺が今後行ってみたい国がこぞって入っている。
9月に行った中国は予想通り下から8番目、ワースト10に入っていた。検閲だらけの国だから当然だね。

ランキング1位は6カ国あるが、北欧3国(フィンランド、ノルウェー、スウェーデン)がすべて入っている。アイスランドも北欧には違いないので4国すべてとなる。そしてオランダとスイスも1位に入り、オーストリアが同率1位の6国に次いで7位に入っている。

そんな自由のイメージが強いスイス、オーストリアに行ってきた。次号で紹介するけど、住みたい都市世界ランキングの上位にも二つの国は入っている(1位ウィーン、2位チューリッヒ、3位ジュネーブ)。

まずスイス編。小さい国なのでレンタカーを3日間運転して回ったら、ほぼ一周してしまった。まあ深夜も走ったからね。深夜はすれ違う車がまるっきりなくて「夜間は戒厳令でも敷かれてるのかな?」と思った(笑)。

車内に寝たり、安ホテルばかり寝てのスイス観光です。エアチケットは貯まったマイルのポイントですべて取りました。右側通行で道路標識はドイツ語だけどマークは似たようなものなんで問題なし!?何度か左車線を走りましたけど(^^;

チューリッヒから徹夜で走ってスイス最南部のツェルマットに到着。始発の乗客は9割が日本人でした。
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ツェルマットから見たマッターホルン(4478メートル)です。
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ゴルナーグラート到着。日本人だらけ。
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4000メートル級の山々(左側はモンテローザ4634メートル)。
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ゴルナーグラート
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同じくゴルナーグラート
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ゴルナー氷河
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マッターホルン山頂
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空に手が届きそうです。
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山を下ってレマン湖に向かう。まだホテルに1泊もしてません。

レマン湖到着。これは9世紀に建てられたション城。
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そのまま寝ずにインターラーケンに向かう。インターラーケンの安ホテルに泊まる。近くにレストランはないし、ホテルの食事は不味いし、サービスも最低(ドイツ語なんで何を言ってるかチンプンカンプン)。でも景色は良かった。


2日目

グリンデルワルトまで車で行き、そこから山岳鉄道に乗る。

クライネ・シャイデックに到着。ここで乗り換える。
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クライネ・シャイデックから見たユングフラウ(4158メートル)
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アイガー北壁(3970メートル)
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アイガー北壁の中腹にある山岳鉄道アイガーブァンド駅の窓。
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この電車で3454メートルのユングフラウヨッホまで登る。4分の3がトンネルだ。
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このアイガーの中を掘って作った全長7.1キロのトンネルに感服。1895年に着工、16年かかって完成。その中間点(2865メートル)にあるアイガーブァント駅はアイガーの絶壁の中に作られた。その展望窓から見下ろす景色に感動。
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スイス人は凄い。さすが山岳民族です。

終点のユングフラウヨッホ駅は3454メートル。

ユングフラウヨッホの展望台(3571メートル)
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展望台
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展望台から見たメンヒ(4099メートル)
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メンヒの山頂に立つ登山者
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氷の絶壁を下る登山者
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ユングフラウを背景に
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山を下り、レンタカーでベルンに向かう。郊外のホテルで1泊。食事は日本から持って行ったインスタントラーメン。鍋じゃなくて湯沸かし器に入れて作った(爆)


翌日はあちこちの古城を撮影しながらチューリッヒへ。
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チューリッヒから飛行機でオーストリアのウィーンへ。オーストリア航空のビジネスクラスに乗ったけど、シートはエコノミーと同型だったよ(笑)


釣竿(パックロッド)を持っていったけど釣り人を一人も見ませんでした。水温が低く、透明度が高いので魚はほとんど育たないらしいです。釣りなんかしないでお国自慢の観光をしておけということかな。


次号ウィーンへ続く
2010/10/24

ジギング天国ノースカロライナ

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昨年9月、大爆釣で全員40キロオーバーをキャッチしたノースカロライナに今年もチャレンジした。出発直前の情報では尾叉長64インチ、63インチなど、重さに換算して55キロ前後のカンパチが連続でキャッチされていた。俺の自己記録は1996年6月に奄美で釣った50キロ(全長170センチ)である。今回も更新するチャンスはかなりありそうだ。ちなみに64インチは友人のレイモンである。

ただ天候があまり良くありそうもない。4日間やれる予定だったが、出船できるのは2日間が限度らしい。しかも2日目は午後から荒れるので早上がりとなりそうだ。

アメリカ人はカンパチを食べない。それが原因なのかジギングの普及率はかなり低い。ヨーロッパ、特にスペイン、イタリア、フランスなどはかなり普及している。中でもフランスはGTの普及率もかなり高い。その数は日本をすでに上回っているような気がする。アメリカもようやくGTゲームが広まりつつあるが、かなりゆっくりしたペースである。マグロのキャスティングは陸路で行けることもあってか、かなり広まっている。しかしGTは飛行機で移動しなければならない。最近のアメリカは記録的なドル安である。国内の景気も沈滞気味だ。いろんな要素があってジギングもGTも伸びないのかもしれない。ちなみにアメリカ人でジギングをするのはシンガポール人など華僑が多い。続いてタイ人、韓国人などである。人口の半分近くを占める白人はほとんどやらない。西欧の他に白人圏でジギングが盛んなところと言えば、なんといってもニュージーランドである。人口は420万と少ないが、国民のレジャー、スポーツとして釣りの地位がとにかく高い。そしてヒラマサ、マダイ、バス(グルーパー)、ハプーカ、テロキーなどジギングのターゲットが豊富である。

そんなわけでノースカロライナのジギングは釣れ続くのだろう。日本国内なら、こんな凄い場所はあっという間に叩かれまくってすぐに釣れなくなってしまう。ヒラマサ、ブリは回遊する魚なので毎年群れが入ってくれば釣果が期待できるが、カンパチはある程度まで成長すると根に付く習性がある。そのため何度か同じ根を叩くとパタッと釣れなくなる。これはカンパチがいなくなったのではなくて、ジグを学習してしまうことが原因だ。ジギングで釣れなくなった(渋くなった)ポイントはあちこちにあるが、餌なら今でも釣れている。それは磯マグロも同じである。トカラ、小笠原などはまだまだたくさんのカンパチ、磯マグロが生息しているが、ディープジギング全盛時代の10年~15年前に比べてはるかに釣れなくなっている。

ただし上手な人は今でもかなりの確立で大きなカンパチを釣る。魚がすれてしまっている現在では腕の差が大きく出る。そのようなことだから腕を競うと言う点では今の方が面白いかもしれない。昔は落とせば誰でもヒットしたのだから。

今回同行の小野さん(シャウト)は国内で40キロオーバーのカンパチを3匹釣っている。しかも最近である。これは素晴らしいことである。日本の若手ジガーの第一人者と言ってもいいだろう。昨年は俺と塚ちゃんとDJ、今年は埼玉支部と屑弁が同行する。はっきり言って俺も含めて達人とか名人とか言えるレベルではない。過去の実績はそれなりのものがあるが、誰でも釣れるようなところばっかり行ってるからである(笑)。今回ようやく本物のジャパニーズジガーを連れていける。サミもキャプテンのマイクも今回で日本のレベルをやっとわかってもらえるだろう。俺、塚ちゃん、DJ、埼玉支部、屑弁では日本は世界で一番ジギングのレベルが低いと思われてもしかたない(^^;


ニューヨークJFK空港に到着。居残ってケープコッドに行くビルダーの出迎えを受ける問題親父たち(笑)
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いつものMIKADOで歓迎会。
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ニューヨークからノースカロライナのウイルミントンまで片道12時間。アメリカ人はこんな距離はさして遠いと思わないらしい。
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深夜3時過ぎにホテルに到着して5時にはホテルを出て6時出船。やたらと眠い。

移動中はビーンズバッグに座って寝る。これはとにかく快適で起きるのが嫌になる。
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ジギングを開始すると、やっぱり入れ食い。

埼玉支部は23キロで自己記録更新!
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※重さは尾叉長と胴回りを計測して換算表で確認する

俺と46キロ(尾叉長59インチ)、これが今回最大だった。
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屑弁は39キロで自己記録大幅更新!
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これはヒレナガカンパチ(ジャックアルマコ)
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※カンパチはアンバージャックと言う。

20キロ以下のカンパチはほとんど船べりリリース。それ以上ありそうなサイズを上げて写真を撮った。もちろん写真を撮った後にリリースした。
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リック艇では予想通り小野さんのワンマンショーだった。
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次から次とカンパチを釣りまくる。
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これにはサミも脱帽だった。

サミ「オノサン、スゴイ!」(英語:Ono-san, Shout field tester amaze me with his jigging skill)

やっと日本のレベルをわかってもらえたようだ(^^)

そんなサミも相変わらずタフで休まず釣り続ける。
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次々とカンパチをゲット!
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久しぶりに参加のHさんも船酔いに苦しみながらも次々ゲット!
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埼玉支部もほ珍しく頑張った(半分はサボっていましたけど)
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屑弁も午前中はほとんど休まず頑張った
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さてリリース方法だが

リリースギャフで魚をランディング
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胸鰭の後ろにエアー抜きの針を刺す
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簡単にエアーが抜ける。そして即リリース。とにかく素早いリリースで、すべて元気に潜っていった。
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たくさんのマンタがお目見え
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ジャパニーズアングラー(埼玉支部と屑弁)は午後になるとこうなった。
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そして2時ごろにはキャプテンに「Stop Fishing!」「Let's return to the hotel!」と叫んでた(笑)

ホテルに戻ってチャイニーズレストランで宴会。

残りの2日間は釣り中止となったので翌日帰路についた。


帰りの途中バージニア州リッチモンド郊外にあるバスプロショップに寄る。
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とにかく広くてデカイ店だった。ここで頑張って特大ステーキ食べた。偉大なアメリカをようやく知る(笑)
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ケープコッド~ノースカロライナと走行距離3500キロをサミは一人で運転した。そして釣りも休まない。とにかくタフな奴だ。
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何の役にも立たない日本人(爆)
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あちこちで路上駐車して立ちションする問題親父にサミもかなり飽きれ顔(^^;
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ワシントンに着いてサミの一族の家を訪れた。そこは大使館通りのど真ん中にあった。
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スゴイ豪邸だった。
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クリントン大統領にホワイトハウスに招待されたことも。
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葉巻をいただいてご機嫌の屑弁
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一本8000円の葉巻をサミの兄弟は1日5本吸うとか・・・1日4万円、1ヶ月120万円!

いったい一族は何者なんでしょか?


12時間後にサミの自宅のあるニュージャージー州プリンストンに到着。すぐ近くにアインシュタインが教壇をとっていた大学があった。


そして翌日はニューヨーク市内観光。それは深夜2時過ぎまで続いた。問題児が数名いるのでやはり問題だったです(爆)

2010/10/23

イカナゴパターンに大苦戦のケープコッド

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昨年9月はケープコッドの湾内かなり奥に入ったところで30キロから50キロくらいのマグロが沸きに沸いていた。しかし小さな魚を食べていてヒットは難しく2日間で40キロと30キロの2キャッチ(キープは1匹)のみ。小さなルアーを持ち込めばと反省しきり。今年の6月は昨年のポイントより若干南側(沖側)。1日目は30~100キロクラスのナブラが船の周りで何箇所も沸いていた。3ヒットで1キャッチ、64キロだった。2日目はそこよりも30キロくらい北側で80~150キロのナブラに何度も遭遇して86キロをキャッチ。とにかくナブラは半端な数ではなかった。ナブラが凄いのにキャッチ数が少ないのは俺は1日1匹釣ったらやめてしまうからである。またレギュレーションが厳しく船中1匹、もしくは2匹しかキープできない(その年、季節によってレギュレーションは変わる。また州によって違う)。

ケープコッドはメーン湾の入り口南側にある。メーン湾は幅が500キロ以上、奥行きが200キロ以上もある大きな湾である。その中でマグロは季節(釣れるのは5月から11月の間)、餌などで居場所を変えている。ボートはトレーラーで移動してそのとき一番釣れそうなポイントの近くで降ろす。ボートを降ろすことができるマリーナはあちこちにある。しかしマグロは移動してしまうので、読みが外れることのほうが多い。そのため洋上で探すことになる。とにかく広い湾なので速いボートでなければならない。トレーラーで移動できる大きさは限度がある。そして30ノット以上のスピードが要求される。そんなことで全長25フィート前後で150馬力の船外機2基が標準となっている。

マッカレル(サバの仲間)、へリング(ニシン)、サンドイール(イカナゴ)、WEHITING(キスの仲間)、ブルーフィッシュなどがこの海域でのマグロの餌となる。6月に来たときはマッカレルだった。この魚は泳ぎが速いのでマグロも猛スピードで突進してくる。そのため凄い水しぶきのナブラとなる。ところが今回はサンドイールがベイトだった。この魚は夜間は海底、日中は中層でゆっくりと泳いでいる。そのためマグロもゆっくりと泳ぎ、水面にナブラが立つことはまずない。アラスカのハリバットやキングサーモンもこれが大好物であり、主にジギングで狙う。ジグヘッドにワームでもよい。とにかくマグロがイカナゴを食べているときはトップではまず釣れないとキャプテンもサミも言っていた。

そのポイントにはクジラもたくさん見えた。やはりサンドイールを食べているようで、数頭で円を描いて泳ぎ、サンドイールを追い詰めて捕食しているようだった。海鳥は空中から猛スピードで落下して水中深くまで潜って捕食していた。

国内のマグロはとにかく難しい。しかしケープコッドも今回は難しかった。


ニューヨークに到着した初日は市内のタイレストランで地元アングラーと宴会
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1日目と2日目は悪天候で中止となった

今回使ったレンタカー。1日約200ドル。
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まだ薄暗い早朝マリーナでボートを降ろす
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3人が限界のスペース
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とにかくボートは速い
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ドーン艇とエリック艇の2艇をチャーターした


釣り初日はオオサンショウウオの1ヒット1ラインブレイクで終了


釣り2日目

ドーン艇では滅多にないナブラに遭遇してトリプルヒット
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サミは55キロ
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ルアーは猛闘犬丸プロト。サミはさらに30キロもキャッチ(リリース)

ビルダーもワンチャンスを
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ビルダーは35キロ
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ルアーはブルーフィッシュ60

び~るだ~さんも酔っ払いながらもちゃんとフッキング
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び~るだ~さんは40キロ
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ルアーはガンマ

なんとドーン艇は全員キャッチである

この時期のレギュレーションは
43インチ以下は1匹までキープOK
43~59インチは1匹までキープOK
59~73インチはすべてリリース
73インチ以上はコマーシャルのライセンスを持っている船長なら3匹までキープOK
※長さは尾叉長、1インチは2.54センチ

マグロの胃袋にはイカナゴがビッシリ!
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エリック艇はチャンスも無く終了


釣り3日目はベタ凪だったが、活性はさらに低かった

鳥もほとんど見えないので、ジギングを開始

ブルーフィッシュが入れ食い!
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サイズは3~5キロ

ビルダーもキャッチ!
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そのあと俺はパンドラでもキャッチ
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さらに置き竿でもヒットしてキャッチ!(爆)
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終了してニューヨークに戻り、いつもの寿司屋(MIKADO)で宴会
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これはび~るだ~さんが釣ったマグロ
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いわゆるボストン沖のマグロです


俺はこのあと後半組とノースカロライナへ。び~るだ~さんとQ太郎は帰国。ビルダーとオオサンショウウオはプー夫婦と再びケープコッドへ


以下はケープコッドへ行ったビルダー一行の釣果です。イカナゴパターンが続き、かなり難しかったけど3匹キャッチでした。

カーペンターテスターのプー父ちゃんのファイト
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40キロくらいです
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ルアーはガンマ75


オオサンショウウオのファイト
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45キロくらいです
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ルアーはガンマ75


ビルダーのファイト
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60キロくらいです
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ルアーはガンマ120


データ

クロマグロ 60kg (キャプテン・ドンさん推定)
ロッド テストロッド 8フィート バットパワー35lb
リール ステラ18000HG
ライン PE6
ルアー ガンマ120
ファイトタイム 5分20秒


ビルダーからのメール(一部を抜粋)

「ロッドのアクション特性が功を奏したのか60kgでしたが、非常に楽に短いファイトタイムでキャッチすることが出来ました。今までにない、新しい考え方のロッドとして良い感じで進んでいます。色々実験を行い、夢のような大きなマグロを少ない負担で釣り上げられるロッドを目指します。」

ビルダーが1本のロッド、1種類のルアーに賭ける情熱は凄いです。その姿勢が良いロッド、良いルアーとなって生まれてきます。



ちなみに餌ではこんなのが釣れてました。
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船かなり傾いてますね(笑)
後日聞きましたが400キロオーバーだったそうです。


ノースカロライナのジギングへ続く
2010/10/05

中国一人旅・西安編

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中国はこのニュースではちきれていた。

中国王朝の歴史である。少数民族である北方民族に何度も征服されている。

BC2000 夏
BC1600 殷
BC1200 周
BC700 春秋時代
BC400 戦国時代
BC221 秦
BC206 前漢
※匈奴(最盛期は中国北部からモンゴルまでを領土とした)
AD25 後漢 黄巾の乱
AD220 三国時代
AD265 晋
五胡十六国時代
AD439 南北朝(北魏は鮮卑族)
※突厥(最盛期は満州から中国北部を経てアラル海までを領土とした)
AD581 隋(鮮卑族)
AD618 唐(鮮卑族) 黄巣の乱
AD907 五代十国時代
AD960 宋(漢民族)
※遼(契丹族)、金(女真族)
AD1271 元(モンゴル族) 紅巾党などの反乱
AD1368 明(漢民族)李自成率いる農民反乱
AD1644 清(満州族)
AD1912 中華民国
AD1949 中華人民共和国

北方民族:匈奴、鮮卑族、突厥族、契丹族、女真族、モンゴル族、満州族など
BC4世紀からAD93年まで北方民族の元祖でもある匈奴の国家が存在した。
匈奴は文字を持たない民族だった。匈奴は一家の長が死ぬと後継者が生母以外の妃たちを受け継ぐ習慣があった。これは他の遊牧民族(北方民族)共通である。そして戦でも敵の男は皆殺しにしても女は殺さなかった。唐の皇帝(高宗)が先代(太宗)の女(後の武則天)を後宮に入れたのも遊牧民族を祖先に持つからだと言われている。

西安(近郊の咸陽含む)はかつて長安と言われ、中国の歴代王朝(秦、漢、隋、唐)の都として栄えた。

西安には歴史上有名な女性が3人存在した。1人目は呂后(漢の高祖劉邦の皇后)で、二人目は中国史上唯一の女帝となった武則天(唐の2代皇帝太宗の時代に後宮に入り、3代皇帝高宗のときに皇后となった。則天武后とも呼ばれる)、3人目は楊貴妃(玄宗皇帝の皇妃だが、最初は玄宗の息子の妃だった。それを玄宗が奪った)である。呂后と武則天は中国3大悪女の中の二人で、楊貴妃は世界3大美人の一人である。3人とも実に興味深い人生を送っている。中でも武則天はすさまじい。権力を掴み、そして守るために息子、娘、孫、甥など親族も大量に処刑している。高宗の前の皇后、妃などは手足切断のあと、骨まで酔わせてやると言って酒壺に投げ込んで殺している。世界一の悪女と言ってもいいだろう。

でもやはり中国は深い。
とにかく歴史は凄い。
初日は始皇帝の兵馬俑を見学。度肝を抜かされた。 2200年以上も昔にこれだけの一大事業をやったのである。当時の人口は2000万人と言われている。さらに万里の長城も築いた。よほど強大な権力を持っていないと絶対にできない大事業である。


西安近郊にある始皇帝の兵馬俑を見学。世界遺産。
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現在発掘されているだけで2000体の兵馬俑。すべて発掘すると8000体になるらしい。
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2200年も昔に造り、長い間発見されないでいた。1974年に井戸を掘っていた農民によって偶然発見された。
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始皇帝が使った馬車
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発掘直後はこのように色が残っていたが、外気に触れると数時間で色は消滅した。
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華清池にある楊貴妃像。楊貴妃はもともと玄宗皇帝の息子の妃だったが玄宗の愛妃となった。
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明代の城壁は高さ12メートルで全長14キロもある。
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大雁塔(慈恩寺)。西遊記で有名な三蔵法師ゆかりの寺。
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ここでは日本語の上手な人が入口からずっと案内してくれる。なんとガイド料は無料です。いろいろ案内した後に文化大革命のときに一人で寺を守ったという11年前に亡くなった普慈館長のお墓に案内された。そして館長のこと、さらに現館長の増勤さんのこともいろいろ聞かされた。聞いているうちに「素晴らしい人ですね」と洗脳されてしまう。さらに天皇陛下、海部総理など日本の要人が来たとか、掛け軸を送ったとか・・・。

そしてある部屋に通される。通されたあとにすぐ入口の扉は閉められた。そこには書道の大家と言われる普慈法師、増勤法師の手書きの掛け軸が展示されている。なんでも傾いた大雁塔の修復や貧しい人たちへの寄付を集めているので掛け軸を買ってくれますかと言われた。今は特別展示で、今しか買えませんと言われた。48000円ですよ。とっても安いですよ。こんな値段では2度と買えませんよなどなど。これで日本語上手な若いオネーちゃんのガイドが無料なのがわかった。まさしくお寺がやっている詐欺まがいの商売である。

ホテルに戻ってインターネットで調べると4年も前から、同じ方法でずっと掛け軸を売っていたのがわかった。何が期間限定の特別展示だよ。そして多くの日本人が買っていることもわかった。普慈さんは11年前に亡くなっている。そんなに売るほど掛け軸に書いていたのか???しかも鑑定書まで付けるそうだ。その鑑定書も怪しい。
まぁ信じる者は救われるですからあまり言わずにいた方がいいのかな?

こんな寺になって三蔵法師も嘆いていると思いますが・・・


北京もそうだったが、西安市内も大渋滞。交差点はどちらも強引に入ってくるので特にひどい。
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強引な割り込み、そして譲らない運転なので事故はあちこちで見かけた。
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五丈原にある諸葛亮孔明の墓。この地で病没した。
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西安の西、宝鶏近郊にある太公望ゆかりの釣魚台。
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※太公望:周の時代、文王と武王に仕えた軍師。本名は姜子牙で姜太公と呼ばれた。

西安近くの釣堀で釣ったテラピア。
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同じく釣堀で釣ったピラニア。どれも原産地は中国ではないような・・・
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俺が世界のあちこちで釣った大物写真を見せてあげたらビックリでした。
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定陵は前漢の第7代皇帝武帝の陵墓。
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武帝時代の英雄、霍去病の墓は定陵のすぐ隣にある。
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唐の第7代皇帝玄宗の愛妃楊貴妃の墓。かつては土を盛っただけの墓だったが、土に美容効果があるとされ、多くの人が土を持ち帰り、土は瞬く間に減ってしまった。そのため現在の楊貴妃墓はブロックで固められている。
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利用したタクシーは1日チャーターで500元(約7000円)。
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永泰公主墓。則天武后の孫娘だが逆鱗に触れ殺されてしまった。
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乾陵。唐の第3代皇帝高宗と中国で唯一の女帝となった則天武后の墓。
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首を切り落とされた六十一幕臣の像。
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則天武后の無字碑。建てられた当時は何も刻まれていなかった。自分の功績は文字で表すことは出来ないという説、功績は後の人々が決めるという説などさまざまな説がある。則天武后は多くの皇族、親族、家臣を処刑している(死刑、自害、殺害など)。
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西安で泊まったのはカナンインターナショナル。ちょっと古いがインターネットは無料で1泊2900円とリーズナブル。
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中国一人旅が終了して一言


日本はつくづく良い国だと思った。そして日本人は中国人よりはるかに優秀である。

そんな日本が実力を発揮できないでいるのは何故?

それはあまりにも程度の低い政治だろう。

毎年総理大臣が代わるのは大問題。各大臣となると1年に2回も3回も代わったりする。こんなに短期間で何がやれるのだよ?

真剣に国の未来を考えて10年後、100年後を見据えた政治をやりなさい!
2010/10/05

中国一人旅・北京編

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金山嶺(万里の長城)。世界遺産。


尖閣問題の真っ最中に俺は中国にいた。
滞在中に新たにフジタの社員が4人拘束されるなど、緊張が高まる中での滞在だった。

滞在中は中国人のモラルの低さ(観光客相手の詐欺まがいの商売など)、運転マナーの悪さ、不透明な国の政策(特権階級の優遇、貧富の格差拡大、インターネットの検閲)、急激な発展(道路、ビルなどの建設ラッシュ)などが強く印象に残った。急激な経済成長を続ける中国だが、不透明な部分がとにかく多い。国民が豊かになり海外へ旅行する人も急激に増えている。中国国内で子供のころから教育されていたことに疑問を感じている人も増えているはずだ。いまでも二人以上で国家の悪口などを公の場で話すと逮捕されると聞いた。インターネットは検閲が厳しくあちこち繋がらなかった(Youtube、FC2ブログ等)。このまま発展を続けていくのか、それともどこかで風船のように弾けるのか。

人口の推移から中国、そして日本の過去、未来を検証してみた。

中国は現在世界一の人口を誇る国である。2009年現在で13億5000万人。これは1860年ごろの世界人口とほぼ同じである。

世界人口と中国人口と日本人口の推移

紀元前1万年 推定400万人
紀元前3000年 推定1400万人   エジプト古代王朝誕生
紀元前1000年 推定5000万人   中国周王朝全盛時(中国の人口は推定500万人、日本の人口は推定10万人)
紀元前200年 推定2億3000万人 中国は秦王朝末期、前漢誕生(中国の人口は推定2000万人、日本の人口推定15万人)
西暦1年   推定2億5000万人 中国は前漢末期(中国の人口は約6000万人、日本の人口推定30万人)
※中国の人口は前漢末期から動乱の時代に入り、西暦50年には約2000万人まで激減した。
※中国で最初に全国的な戸籍が作られたのは、前漢の末期、平帝の元始2年(西暦2年)で、全国の人口59,594,978人、戸数12,233,062戸であった。これ以降の中国の総人口については戸籍登録人口をもとに論じることができるようになる。
西暦250年 推定2億5000万人  中国は三国時代、日本は邪馬台国(中国の人口は約1000万人、日本の人口は推定50万人)
※三国時代にさらに人口は減って1000万人を割ったという説もある。以後隋王朝が誕生する581年までほとんど人口は増えない。
西暦700年  推定2億人     中国は唐王朝全盛時、日本は奈良時代初期(中国の人口は約5200万人、日本の人口は推定約500万人)
西暦1000年 推定2億8000万人  中国は宋王朝、日本は平安時代(中国の人口は推定6000万人、日本の人口は推定700万人)
※宋の時代にようやく前漢時代の人口を追い越す。
西暦1500年 推定4億~5億人  中国は明王朝全盛時、日本は室町時代(中国の人口は約1億人、日本の人口推定900万人)
西暦1800年 推定9億人     中国は清王朝全盛時、日本は江戸時代(中国の人口は約3億人、日本の人口は約3200万人)
西暦1900年 推定16億人    中国は清王朝末期、日本は明治時代(中国の人口は約4億人、日本の人口は約4500万人)
西暦1950年 約25億人     中国は中華人民共和国、日本は昭和25年(中国の人口は約5億6000万人、日本の人口は約8380万人)
西暦2000年 約61億人     中国の人口は12億7000万人(日本の人口は1億2670万人)
※日本の人口は2004年がピークで、以後徐々に減少する。
西暦2010年 約69億人     中国の人口は13億5000万人(日本の人口は1億2750万人)
西暦2030年 予想83億人    中国の人口予想は14億6000万人でピークに達する(日本の人口予想は1億1700万人)
※2030年までには中国はインドに追い越されて世界第2位の人口となる予想。
西暦2050年 予想92億人    中国の人口予想は14億人(日本の人口予想は1億人)
西暦2100年 予想90億人    中国の人口予想は10億人(日本の人口予想は5000万人)

人口減少と総合国力に関する研究
http://www.mlit.go.jp/singikai/kokudosin/keikaku/lifestyle/3/shiryou3-1.pdf
2050年の予想で日本は中国に大差をつけられている。

日本のGDP(国内総生産)
2007年の515兆7325億円がピークで以降減り続けている。2010年に中国に追い越され世界第3位になる予想。

日本のサラリーマンの平均年収
1997年がピークで467万円。それ以降減り続けている。

人口と国力がほぼ比例していることがわかる。中国の国力も歴史を調べれば王朝の末期は国が腐敗(貧困、飢餓等)して減少、王朝が滅びて動乱の時代は戦いなどでさらに減少、新しい王朝が誕生すると人口は増加、王朝の全盛時に人口もピークに達していることがわかる。現在の中国は過去に当てはめればまさしく新王朝が誕生してまもない時期にあたる。

ただし全盛もやがてピークを迎えて国力は下り坂へと入る。最後は農民の反乱、各部族の反乱で多くの王朝が滅んでいる。王朝の最後は一族惨殺、多くの奴隷、民族の大量殺戮などその残忍さは日本の比ではない。

日本は歴史上、農民の反乱や外部からの民族の侵入で滅んだ朝廷、幕府は無い。そして日本は天皇制が2000年近くも続いている。大きな変化がなかった日本と、何度も農民の反乱で滅んだり、少数民族(主に北方民族)に何度も支配された中国とでは国家存亡を語る上で大きな違いがある。

日本の人口予想は今後100年以上減り続けることになる。すでにピークを越えて国力は年々低下している。100年後に国が存続しているかどうか?


尖閣の領土問題を北京で知り合った中国人と話し合ったが、最後は激しい口論となった。彼は尖閣だけでなく「沖縄も中国の領土だ」と言いきっていた。中国は清王朝後期の時代にイギリス、フランス、ドイツ、日本などに攻められて国力が著しく弱体化した。その時代に沖縄(中国人は琉球と呼ぶ)を日本に奪われたと話していた。確かに日本の歴史を調べると明治政府は1872年(明治5年)、琉球王国を強制廃止して日本国の琉球藩として設置したとある。これに清は猛反発してやがて日清戦争となり、負けた清は日本の主張を認めざるを得なくなった。沖縄は江戸時代に薩摩藩の支配下に置かれているが琉球王国という国家の存続は認められている。

領土問題は世界のあちこちで発生している。イスラエルなどは2000年以上も続く領土問題である。東アジアでは南沙諸島も大きな領土問題で6カ国が領土を主張していて軍事衝突が何度も繰り返されている。尖閣の問題もこれからずっと続くであろうし、日本が弱腰外交を続ければ沖縄まで返せと言ってくるだろう。昔、領土は戦って奪い合ってきた。今の時代は外交が戦いなのである。そして勝つためには強い国力が必要不可欠なのである。北方領土も1990年ごろは返還の期待が持てたが、国力の落ちた現在ではほとんど期待できなくなった。

ただ1960年代には中国政府発行の地図でさえ尖閣は日本の領土になっていた。しかも尖閣はかつて有人島でピーク時には250人もの日本人が住んでいた。
2010年9月16日発行のワシントンタイムズ誌にもその地図が記載されている。
http://www.worldtimes.co.jp/news/world/kiji/100917-191757.html
それが1969年および70年に国連が行った海洋調査で、推定1095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告されると台湾と中国はそれまでの立場を逆転させてきた。1971年6月に台湾、12月に中国が相次いで領有権を主張したのである。そして日本の領土とされていた地図の回収までも始めたのである。

ほんとに中国人はせこい!

中国を旅している時も、そのせこさに何度も俺は憤慨していた。タクシー、食堂、観光地、果物屋、空港などでせこい中国人に何度も会った。俺は先進国と発展途上国の違いは国民のモラルの高さで判断しているが、中国は間違いなく発展途上国である。まあ日本もそう考えると先進国とは言い難いが・・・

今回の尖閣問題も昔から主張していたのならともかく、海底油田が発見されてから手のひらをひっくり返して主張してきたのだから当然納得できない。



中国は秦、漢、隋、唐、宋、元、明、清初期の時代は世界最強の国の一つと言われていた(漢の時代、世界最強は東に漢、西にローマと言われた)。ただし隋(鮮卑族)、唐(鮮卑族)、元(モンゴル族)、清(満州族)は漢民族の王朝ではない。宋の時代に北京を占領した遼は契丹族、金は女真族とすべて北方の民族である。人口の9割以上を占める漢民族だが、戦争は決して強くない民族のようである。しかしこのまま成長していくと20~30年後に再び世界最強の国となる。

中国の王朝は一度国を統一するとまもなく贅沢三昧に浸ることが歴史で証明されている。皇帝の女が住む後宮などは多いときは1万人もいたそうだ。そして去勢されたたくさんの宦官が仕えていた。皇帝が死ぬと後宮の女たちは全員お寺に送られて尼となり、一生を皇帝に捧げた(もちろん強制的に)。日本には宦官は存在しなかったし、後宮にあたる大奥(江戸時代)だが規模も小さく女の数も比較にならないほど少ない。その中国の王朝と後宮の歴史を調べると権力者の陰謀、一族親族の醜い争い、理不尽で卑劣、凄絶な拷問などなど日本の朝廷、幕府がとんでもなく優しく感じてしまうほどである。

尖閣問題で日本政府は簡単に折れたが、中国政府は日本が折れた後も次々と日本を叩き続けた。それは島国で太平洋戦争まで一度も占領されたことがない日本民族(単民族)と、何度も奪い、奪われなど凄絶な歴史を持つ中国民族(多民族)との違いなのかもしれない。中国を旅していると日本人は温室育ち、中国人は雑草に感じる。

多民族、広大な国土、領土問題、経済摩擦、為替、水不足、人口増加、食料自給率など中国は大国ゆえに多くの問題を抱えている。ちょっとでも行く先を間違えると大暴動となるかもしれない。一触即発、それが中国政府の一番恐れるところだろう。そして安定が続けば腐敗がはびこる。

中国では1960年代後半から1970年代前半の暴力を伴う大権力闘争「文化大革命」が全国で大々的に展開され多くの人が弾圧された。犠牲者数は推計で約数百万人から約1000万人以上といわれている。

さらに1989年には民主化を求めた学生が天安門広場に集結。最初は1万人程度の規模だったが、徐々に増えていき軍が介入するころには100万人規模になっていた。軍の弾圧で犠牲者は3000人とも、数万人とも言われている。この事件に関しては政府が大がかりな隠遁工作を行ったので多くの国民は真実を知らされていない。その隠遁工作は20年を過ぎた現在でも続いている。

つい最近、服役中の民主活動家・劉暁波(りゅうぎょうは)にノーベル平和賞が授与されることになった。それに関して中国政府はノルウエーに圧力をかけたり、そして国内では一切報道させないなど、相変わらずの姿勢を見せている。

北京で話し合った人は甘い汁を吸う特権階級と貧富の格差(人口13億のうち12億は貧乏で1億が金持ちといったところ)を語っていた。急激に成長している中国だが、不満を持つ国民は確実に増えている。


以下は中国4000年の偉大な歴史の写真です。


北京空港到着、びっくりするほど最新で大きな空港だ。
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北京市内の高層ビル群
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観光は紫禁城(故宮博物院)のすぐ北にある景山公園からスタート。

これは明の最後の皇帝が首を吊ったところ
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景山公園から見た紫禁城。世界遺産。
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大和殿
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頤和園の中にある石でできた船。西大后の朝食はここ。一食が庶民の2年半分だったそうだ。
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※西太后:中国3大悪女の一人、清の時代に贅沢三昧の生活をして清の軍事力を著しく弱体化させた。

昆明湖と頤和園。世界遺産。
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八達嶺(万里の長城)は北京から近いので観光客でいっぱい。万里の長城の全長は現在確認されているところで8851キロメートル。未確認も含めると3万キロもあるらしい。世界遺産。
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定陵(明の14代皇帝、万暦帝)の地下宮殿。世界遺産。
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世界遺産の祈年殿(天壇)
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ぼったくり三輪タクシー。300元と請求されたが10元しか払わなかった(笑)
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空港でも怪しい偽係員に案内されて100元請求されたが1元しか払わなかった(爆)


金山嶺(万里の長城)。世界遺産。
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金山嶺(万里の長城)。写真を撮るならここが良い。観光客が少なく景色は最高。世界遺産。
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金山嶺ののろし台。のろし台は現在5723ヵ所が確認されている。
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今年の2月9日に花火を上げたら燃えてしまった中国中央テレビ(CCTV)の新ビル。
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北京オリンピックの前はドアの無いトイレがほとんどだったらしい。
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正陽門(前門)。現在はほとんど残ってないが紫禁城を中心とした内城を囲む城壁に造られた9つの門のひとつ。内城の正門にあたる。内城を囲む城壁は全長が22キロもあった。1953年から1969年にかけてほとんどの門と城壁が取り壊された。
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天安門。紫禁城の南端にある正門。この南側が天安門広場。700~800メートル南に正陽門がある。
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ここで撮影中に公安に何度も注意された。追いかけられたりも(^^;

人民大会堂(日本の国会議事堂にあたる)
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雍和宮の法輪殿。北京最大のチベット仏教寺院。
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多くの北京人は雍和宮を最も霊験あらたかな寺院としている。雍和宮は焼香する人が他の寺院とは比較にならないほど多い。
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798芸術区は工場の跡地を再利用した一大芸術区。
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中国らしい芸術だ。
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これも。
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北京での宿泊はレッドウオールホテル。3星だが1泊3,000円前後とリーズナブル。
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西安観光へと続く